首都 ハノイ
2016/04/26 火曜日
ベトナムの首都ハノイは、高層ビルが建ち並ぶような場所ではなかった。行き交うオートバイにまたがる人々は、着古したTシャツにハーフパンツ姿。なにかを競うかのように、クラクションを鳴らし続ける。道路はゴミが散乱し、毒々しい液体が道路に水たまりを作っていた。
私は声をあげて笑った。こういうのが見たかったのだ。疲れを忘れ、私は歩を進めた。
新しい光景に目を奪われながら、1時間ほど町をさまよった。公園のベンチを見つけ、バックを枕に横になった。野宿に抵抗はないし、ここは治安も悪くなさそうだ。ただ、野宿をしようと決め込んだものの蚊が多く、なかなか寝付けない。どうしたものかと悩んでいると、1人の客引きがホテルを勧めてくる。一泊300,000ドンだという。日本円で、1500円。かなり高い気もしたが、ベトナムの物価が分からない。なにより、蚊にウンザリしていた私は迷わなかった。今夜はそこに泊まることにした。
翌日、ホテルのベッドで目を覚ました。ラブホテルのような場所だったが、快適だったので良しとした。
チェックアウトを済ませた私は、バックパックを背負ったまま町をフラついた。町は迷路のように要り組んでおり、把握するのが難しい。野路裏を歩いていると、一軒のホテルが目に入る。値段は、シングルで一泊900円だった。昨日がぼったくり価格だったのだろう。私はここに宿を取ることにした。
荷物の重さから解放された私は、観光地をいくつか訪れた。特に素晴らしい場所でもないが、何故か惹き付けられる。有名なベトナム料理であるフォーも食べた。旨い。濃いめの味付けは、私の舌を喜ばせた。
町も人々も、見ていて飽きがこない。おそらく、日本とは全く違う国の雰囲気に惹き付けられたのだ。私は結局、この町に3日間滞在した。
首都 ハノイ にて撮影
南寧、そしてベトナムへ
2016/04/25 月曜日
南寧までは、またもや列車の旅となった。宿のスタッフがわざわざ駅まで付いてきてくれて、なんとかチケットを購入することができた。
列車は16時間後、無事に南寧に到着した。町は活気付いていて、引き寄せられる何かがあった。しかし、この町で宿を取る気はなかった。うまく説明できないが、私はベトナムへと急いだ。それ以上の何かが、ベトナムにある気がしたからだ。
駅を出てすぐのところに旅行会社があった。ベトナムへ行きたいと英語で説明すると、慣れない英語で丁寧に教えてくれた。
教えられたバス停を探し、バスに乗る。30分程走っただろうか。バスは町の中心地を離れる。すると、大型バスがたくさん並ぶ場所へ辿り着いた。
降車後、私はすぐにチケットを買いに行った。ベトナムの首都まで170元(=2800円)。出発までは、2時間ある。間に合った。私は安堵のため息を洩らした。
急いでここまで来たため、腹の減りに気付かなかった。私は近くの店に入った。厨房にいた女性に牛肉麺と書かれた文字を指差す。出てきたのは、あっさりしたスープの中に、白く太めの麺、葉物や豆類の入った料理だった。味は悪くないが、美味しいものでもなかった。
バスの旅は快適そのものだった。リクライニングのシートに、エアコン。なんと、軽食まで付いてきた。素晴らしい旅になる予感がした。
バスは農村部を突き進んだ。基本的に平地だが、時折大きな岩山が姿を現す。それは、武陵源で見たそれと同じだった。鋭利な形ではないものの、日本にはない風景で、退屈しのぎには充分だった。
3時間ほど経っただろうか。バスは国境に到着した。南部に移動するにつれて薄々感じていたことだが、暑い。何をするも、暑い。バスを降りてそう感じた。
降りたところから中国側のイミグレーションまでは、小さなカートで移動した。よくゴルフ場で見かけるあれだ。
イミグレーションに到着し、出入国カードを記入する。出国審査では、すでに多くの人が列を作っていた。列に並び順番を待っている間、前にいた中国人の男性と少し話をした。初の陸路移動だと伝えると、何でも聞いてくださいと、そう言ってくれた。
その後、出国スタンプをもらい、徒歩でベトナム側のイミグレーションへと向かう。エアコンもなく暑さに参ったが、こちらもなんとかスタンプをもらった。嬉しい。パスポートにスタンプが増える喜びは、世界共通なのだろうか……。
まだ綺麗なパスポートをバッグにしまい込み、首都ハノイへと向かうバスに乗り込んだ。
南寧 バスターミナルにて撮影
張家界
2016/04/24 土曜日
張家界はそこそこ発展しており、知った店も多々ある。マクドナルドがあったのでWi-Fi目当てに入店するが、店員に中国語で何やら言われるだけだった。
途方に暮れるなか、近くを通りかかったおばちゃんが話し掛けてくれた。事情を説明すると、近くの建物を指差す。どうやら、その建物の3階でWi-Fiが使えるらしい。
おばちゃんに礼をいい、私はその建物へ急いだ。入り口が裏手にあり、怪しいなと感じながらも階段を上がる。途中、露出度の高い服装をした女性が階段から降りてきた。私を見るなり、ウインクをしてくる。ますます怪しい。3階に到着して、それはようやく判明した。風俗店だったのだ。幸いなことに、店内に入らずともWi-Fiが使えたので、店の入り口で調べものをする。気まずい雰囲気だったが、これで宿の場所は分かった。
探すのにヘトヘトで、私は歩いて行くを諦めた。バイクタクシーの運転手に場所を伝え、そこへ連れて行ってもらう。かなり分かりにくい所にある。そりゃ、現地の人も分からない訳だ。運転手でさえ、何度も迷っていたのだから。
部屋は4人部屋のドミトリーで、スペイン人男性が宿泊していた。シャワーを浴び、ベッドに入った。隣室の喘ぎ声が酷かったが、列車の疲れからか、私はすぐに眠りに落ちた。
翌朝、午前10時前に宿を出た。この日は、奇岩で有名な「武陵源」に向かうのだ。宿で行き方を記した地図をもらったが、コピー機の問題か、文字が薄くて読めない。人に聞いて、ようやくバス停に辿り着いた。ただ、ここでも時間をくってしまった。中国全土かは分からないが、ここのバスは手を挙げないと停まらないらしい。私の前を無情にも過ぎていくバスを見て、近くにいた人が代わりにバスを停めてくれた。朝から優しさを感じることができた。
バスは、国家森林公園に向かう。武陵源は広大で、とてもじゃないが1日では回れない。私はこの日、ひとつのルートに絞って楽しむことにした。
バスは40分程走ると川沿いの広い通りに出た。観光客が多いので、勘を働かせ、ここで降りることにした。そこから5分程、近くの山へ向かって歩くと、大きな入り口が見えてきた。勘は見事に当たっていた。パスポートを見せて、チケットを購入する。値段は245元と高めだが、2日間有効だそう。
チケットを見せ、ゲートをくぐると、バスが並んでいた。近くに停車していたバスに乗り、ハイキングコースの入口で降りる。入口からは武陵源特有の、その鋭利に削られた岩が姿を見せていた。
美しさが増すごとに、道も徐々に険しくなっていった。ハイキングコースは階段続きで、平坦な道はほとんどない。気温と湿度はともに高く、私は暑さに苦しめられた。たがこのこと以上に、観光客が多いことがなにより辛かった。内向的な私にとって、人が多い場所は気疲れするのだ。そのせいか、この絶景を心から楽しめないでいた。
午後5時頃、バス停についた。武陵源には6時間ほどいたことになる。
帰りのバスで、明日の予定を考えた。天候は良くないらしいが、別ルートは美しいと聞く。宿にいたスペイン人も、確かにそう言っていた。チケットも2日間有効である。しかし、私の心はすでに次の国に向いていた。
張家界市 武陵源にて撮影
列車の旅
2016/04/22 金曜日
朝の9時頃に目を覚ました。教えてもらった張家界に行くため、まずは上海南駅に向かう。足はボロボロだが、歩くしかない。そういう旅がしたかったのだ。
到着後、チケット売場に向かう。ここに行きたいと、メモ帳に書いておいた張家界の文字を指差す。寝台か通常の席か、その他色々聞かれたが、前日教えてもらった通りに伝える。最後にパスポートを見せ、すんなりと購入することができた。値段は189.5元。日本円で3000円ちょっとだ。安い。なんたって、約1100キロもの距離があるのだから……。
列車に乗ってみると、座席は90度で、寝るには厳しい角度だった。もちろん、座席を倒す機能はなかった。
車内は相席のような形で、進行方向に対して右側は4人席、通路を挟んで左側は6人席となっている。6人席の通路側、進行方向と逆の位置が私の席だった。景色が見たかったので、窓から遠いのは残念だったが、隣の女性が美しい。私は、それだけで自分の座席に満足した。
列車は、予定時刻を10分ほど遅れた午後5時20分、張家界に向け動き出した。窓からは散々歩いた上海の艶やかな街が見えていたが、列車の速さにかかれば、その姿は5分ともたなかった。あっさりと、最初の街を出てしまった。もう少し長居すれば良かったかなと後悔したが、思い立ったときが旬なのだと、そう自分に言い聞かせた。
車窓からは、乱立した無個性な建物がみえた。廃墟のような街に、絢爛なマンションが一棟建っている所もあった。
車両内では、時折大きな声が響き渡る。車内販売の声だ。売っているものは食べ物や靴、ご利益ある(?)ハンドクリームなど、その種類は様々だった。
時間は夕飯時になり、乗客たちも何かしら食べ始める。私もあらかじめ買っておいたクッキーを食べるが、腹の足しにもならなかった。水で腹を満たそうと躍起になっていると、前の席に座っていた青年が販売員に声を掛け、丸いパックに入ったものを購入した。中身はビビンバに似た料理で、頬張る姿を見ていると、私もそれが欲しくなった。食欲には勝てない。私は、車両を折り返してきた販売員から買ってみた。蓋をあけると、ツンとくる辛味が食欲をそそった。箸を割り、青年と同じように頬張る。もの凄くおいしい。中華料理はなぜ評価が高いのか、少し分かった気がした。
私の食べる姿を見て、周りの中国人が一斉に注目した。私はニコッと笑いかけ、美味しいと表情で伝えると、そうかそうか、それは良かったと言うように、彼らは笑顔を返してくれた。旅行者として、何より日本人として嬉しかった。
腹が満たされると、強い眠気に襲われた。眠る努力をしてみるものの、何せ環境が悪い。座席は硬く直角で、足を伸ばすスペースもない。体勢を変え、あれこれ工夫しているうちに空が白み始めた。私は眠ることをキッパリ諦めた。
私は、前に座っている青年に「張家界には何時に着くのか」と訊ねた。13時頃だと教えてくれた。「まだまだじゃないか!」と心で叫んだが、そこから列車の旅はとても楽しいものになった。その青年をはじめ、近くにいた乗客が次々と質問してくれたからだ。こちらもいくつか質問し、中国語でのあいさつや道の聞き方を教わった。ちゃっかりと、隣の女性に名前を教えてもらったが、私は正しく発音できなかった。話している最中、薬指に光る指輪を見てしまい、少し心が沈んだのを覚えている。
度々停まる駅で乗客もぽつりぽつりと降車し、車両には私と青年、ほか数名の中国人だけとなった。……隣の女性も降車してしまった。
そこからしばらく走ると、大きな街が見えてきた。青年が張家界だと笑顔で言う。ようやく辿り着いた。20時間以上も列車に乗っていたことになる。これもまぁ、いい思い出か。
20時間ぶりに荷物を抱え、その重さを肩に感じながら、私は駅の改札をくぐった。
上海駅構内にて撮影
上海
2016/04/21 木曜日
街は想像以上に大きく、高層ビルが建ち並び、多くの人々が行き交っていた。都会はあまり好きではないが、目に写る中国語の数々に、私の心は満足していた。
歩いていると、ATMを見つけることができた。時間は掛かったが、なんとか現金を引き出せた。お札には「100」と書いてある。高いのか、そうでないのか分からない。事前に調べるべきだったと、このとき後悔した。
近くにあったコンビニに入り、ここで物価を把握することにした。パンはどれも5元前後、といったところだ。ここでは何も買わず、大きなスーパーを探し、そこで水とパンを購入する。日本も中国も、コンビニは価格が少し高いようだった。
午後に入り、私は市内を散策した。あてもなく長時間歩いたため、有名な観光地に運良く出くわすことができた。ただ、外灘や豫園などを見て回ったが、私の心にはあまり響かなかった。それは、中国が、どこか日本と同じ雰囲気を纏っているからだと、そう思えた。
重いバックパックを背負っての移動は辛いもので、当初は野宿の予定だったが、身体を休めるため宿に泊まる決心をした。たまたまWi-Fiが拾えたので、安宿を検索する。ここから歩いて2時間の距離だ。身体はボロボロだが、甘えてはいられない。私は自分の身体にムチを打ち、重い足を動かした。
宿に着いたのは夜の8時前だった。この日は、実に40キロも歩いたことになる。足裏は水ぶくれで、これ以上はとても歩けそうになかった。
宿は綺麗なユースホテルで、つたない英語で何とかチェックインをする。部屋はドミトリーで6人部屋だった。ベッドは4つが埋まっていた。すぐにでも眠りたかったが、30代の中国人男性に話し掛けられた。最初は面倒に思えたが、次第に面白くなった。これが旅の醍醐味なのだろうか……。
旅のルートについて相談すると、有益な情報もくれた。張家界と呼ばれる町で、有名な奇岩が見れるという。私も、日本のテレビで何度か目にしていた。これは是非とも見てみたい。男性に行き方を教えてもらう。
こうして私は、次の行き先を「張家界」に決めた。
中国・上海にて撮影
出港
2016/04/19 火曜日
込み上げてくる悲しみも、またなかったように思う。印象に残っているのは、玄関口で手を振るも、目を合わせてくれなかった父の姿だった。
母の運転する車で最寄り駅へと向かった。そこからは電車で1時間、バスで10分程の道のりで、あっさりと、出発地である大阪港へと到着した。
出国手続きに時間は掛からなかった。拍子抜けな気もしたが、日本人が母国から出るだけだ。難しいものではないのだろう。
手続きを終え、ロビーで待つよう指示される。大きな窓ガラスが並んでおり、ガラス越しに、私を上海へと運ぶ船が見えた。大きな船ではない。ただ、陽の光を浴びて白く輝いていた。
乗船すると、部屋に案内された。8人部屋だが私しかいない。乗客は中国人が大半のようで、部屋が別れているらしい。
一息つき、荷物の整理をしていると、それまで聞こえていたエンジン音がより一層大きくなった。アナウンスが鳴る。準備が整ったようで、時間を30分ほど早めて出港するとのことだった。
私はデッキに出て、頬にあたる風を感じた。離れゆく日本を眺め、これから始まる旅について、あれこれ考えを巡らせた。
自室に戻り、携帯の電波が届くことに気づく。無事に乗船したことを、メールで母に告げたかったのだ。泣き虫な私は涙してしまうかと思ったが、ここでもまた、そのようなことはなかった。
高揚感に包まれることもなく、不安にかられることもない。ただ、なんとも言えぬ気持ちが全身にまとわりつき、それは私を離してはくれなかった。
そんな気持ちのまま、私を乗せた「新鑑真号」は、最初の国である中国・上海へ進路をとり、穏やかな海上を進んでいった。
大阪-上海 新鑑真号にて撮影